9カナダで日本語
彼から直接話を聞かせていただくことにしましょう。
私は1922年、ブランドン市、マニトバ諸州、カナダの小さな病院で生まれました。ちょうどその時、日本への宣教師がファーロのため、カナダに帰っていて、日本人の赤ちゃんが生まれたことを聞くと、私を見に来たのです。日本語で父母と話し、帰る前に私の額に手を置き祈ってくれたそうです。しかし、このことは私に一言も話してくれませんでした。
まだよちよち歩きの時、家族はバンクーバー市に引っ越しました。そこで父は材木・石炭商売を始めました。
日本の家族の長男は特別な立場が与えられ、私は特別な名前も受けています。大城昇。「大きい城の貴族」(アメリカ人の「昇」の発音は英語の「気高」に聞こえます)と誇ったりすることもありました。
10強く生きるとは
家で尊敬されて、学校でも尊敬されていました。スポーツ選手として活躍していたし、学生自治委員会の会長と選ばれていました。
学校が終わった後、他の二世たちと集まり、日本語の学びをしました。その頃ハーモニカ楽団に参加することを断るほど勉強熱心だったことを思い出します。
日本語学校で漢字を練習し、色々覚えました。戦争に入った時大きな助けになったのはこの一つの教えでしょう。「人格は目的であって、手段ではない。」
「他の若い二世達もカナダの生活の一番良い面と、日本文化的遺産の一番良い面を合わせることができたら、彼らは、社会に豊かな貢献ができるのに。」と、思いました。この夢をいだき、教師になる決心をしました。が、この決心は簡単に実現できるものではありませんでした。
高校3年の時、教師になることについて、市の教育委員会に相談するようにと校長に勧められました。
「教師資格証明書を与えることはできますけれど、世論を考慮しなければならないので、職につくことは保証できません。」といわれました。政治的緊張のため(第2次世界戦争直前だったので)、日系人に教師の仕事は与えられなかったのです。
教師がだめなら中学時代の夢に従い、軍人になろうと思い、大学授業後行われていた将校訓練に入りました。
が、その冬真珠湾が奇襲攻撃を受け、日本二世はみんな将校訓練をやめさせられました。
ある日、郵便局のクリスマス休日アルバイト募集広告を見ました。
でも二世の友人たちは募集に応じることを考えられません。「日系人を雇う訳はない」と。
「どうかな。」
私は、申込書の指名のところにオオシロの代わりにオーシャイロと書いて見ました。アイランド人と思われ、数日後、郵便局に呼ばれたのです。
窓口に行った時、この日本人の顔が見られて、「こちらへどうぞ。」と奥の部屋に案内されました。
「明日、下町の事務室に行ってもらえませんか。局長との面接が必要なので。」これからの続きは分かっていましたが、行って見ました。
「今の戦争状態で日本はこの国の敵となっています。日本人の血統である人に政府の支部である郵便局の仕事を与えることはできません。」と、言われました。
拒絶されることを早く学んだと言えるでしょう。
カナダの日系人は3つの選択が与えられました。国の東海岸、中央平野の砂糖大根農場、西海岸の捕虜収容所。父は16年間の材木と石炭の商売を売り払い、家族は南アルバータの砂糖大根農場に来ました。
大勢が戦争に出て行ったため、急に教師が少なくなりました。約一年後カナダの政府は戦争緊急教師訓練計画を立てました。
教師になるチャンスを逃すことはできません。砂糖大根農場を離れ、学校に向かいました。問題はただひとつ。教師訓練自体はカルガリー市で与えられていましたが、強制避難させられた日系人はカルガリー市内に住むことが許されていなかったのです。
それで、私は町の堺線はずれの小さな町で下宿人を迎える家を探しました。最近ご主人を亡くした年輩の婦人が私を置いてくれました。電車で通学し、家庭を終了し、教師としての最初の任務が与えられました。