"So have you played the piano already?" Janice asked me. "You know it's still in the living room." Janice was the one who had the itchy fingers and always wanted to finger a keyboard. In an old photo album, I see my sisters sitting down to read, and Janice is sitting down at her toy piano. She was also the one, after she was grown, who once got a large piece of brown paper, drew lines on it with black magic marker; laid it on top of something on the floor and sat next to it to "play" it until Daddy got the message and bought her a used keyboard.
The first house we lived in was much too small, but as soon as we moved, we got a piano, and Mommy taught us the beauty of music. I can't imagine life without music. I'm sure Mommy had a lot to do with that. She got all three of her girls taking piano lessons, telling us we could use it for the Lord. Our school had a strong athletic department but had pretty much nothing when it came to music. Mommy's enthusiasm was about the only encouragement we got from the music education side.
I think it took Mommy more self-discipline to keep us on the piano than it took for us to keep at it. There were times we all wanted to quit. But Mommy always said, "If I let you quit now, some day down the road, you're going to look at me and say, 'Mommy, why'd you let me quit?' You really want me to let you quit?" We didn't when she put it that way. In fact, Joyce went on to major in music education in college (well, it was a double major, because she did math ed too).
Altho' I helped the missionary pianist in Fukushima-ken before the 2011 earthquake and practiced my piano as soon as we moved down to Iwatsuki after that, for various reasons, I have been away from the piano since 2017. When Janice asked if I'd played the piano, I realized I was almost afraid to say I'd try to play again--I wasn't sure how much my fingers would move.
It was as if the piano "heard" my misgivings and drew attention to how lackluster it had gotten, how it was slightly out of tune and sounded tinny now anyway. I didn't have to be able to perform on an advanced level; it wouldn't be able to produce the sound to match. So...I began plinking away, and before I realized it, I'd been sitting at the piano several hours. Chords and octaves were coming out of my fingers, and my fingers began finding accompanying minors, crossovers. I am still nowhere near what I would call "free", but I surprised myself with how I was able to ENJOY.
Thank you, God, for giving me a Mommy who wouldn't let us quit.
スクリューテープの手紙18と19
苦悩さん、
悪霊大学で性的誘惑について学んだことがあると思います。面倒なことですが、もっと詳しいことを知る必要があるので少しここで描かせて頂きます。
人間に対して敵の要求はジレンマの形をとります。完全な禁欲、それとも一夫一婦主義です。禁欲というものが非常に難しくなるように我々は働いています。一夫一婦の考えを攻撃し、成功していると思います。作者・詩人をとおして恋というものを主張し、結婚のただ一つのかっひはこの感情が起こさせることだと考えさせ、この気持ちがなくなったら結婚の意味もない・忠誠も要らないと思わせています。敵の結婚の観念を少し曲げたものです。
地獄の原則は、一つの者は他の者ではないと、いうことです。私のために良いものは、私のために良いもので、あなたのために良いものは、あなたのために、良いのです。片方が得する時、片方は必ず損するのです。一つの者が成功するとき、他の者が縮まなければならないのです。何かの意志が強くなるということは、他の意志を飲み込み、弱い者が強い者に自由を奪われるのです。
敵の哲学は正反対です。ものは幾つかありながら、一つになる、一つのものに良いものは、他のものにも良くなるということです。この不可能な態度・矛盾した観念は愛というものに基づいています。彼自身の存在も三位一体というばかげた形で現れます、
彼が再生産のために性を選んだ理由も明白でしょう。我々にとって、性そのものは、危ないものではありませんでした。クモの結婚を見て分かるでしょう。「花嫁が花婿を食べる」ことに終わります。我々の原則、強い者が弱いものを食い尽くすに、従うものです。が人間の間に敵は情欲を通して愛情を成長させます。子供は親にたより、親は子供を育てる本能が与えられ、家族というものがあります。一人一人に番人的アイデンティティー責任があり、愛の存在が見えるようになります。
面白いことに、敵は結婚状態を一身同体と表現します。幸せに結ばれた夫婦とか互いに愛し合ったから結婚した夫婦と言いません。人間はこういうことを簡単に忘れます。それに、この状態は法律的に結婚した人のことを指しているのでなく、肉体関係をもった男女だれにでも当てはまります。人間の世界の中でこいするという表現を使い性的交際と混同させることがあります。もちろん、人間同士でこのような一時的感情を長く保つことはとてもできません。こういう関係の中かあら家族が始められると、恋がなくなると、「相手を愛していない」状態に入ると、忠誠も消えやすくなります。敵は、結婚を通して真の愛を与えようとするのですが、我々が努力すると、その反対の結果を見ることができると思います。すなわち、愛がないことを通して家族と言うものを壊すことができるのです。
互いに助け合い、愛と聖さを守り、新しい命の 誕生を見る。相手に仕えることなどは結婚するために足りないと思わせてください。情的欲を愛と見せかけ、これがある限り、どのような無知な者でも、愚か者でも、乱暴者でも結婚しその結果の罪から守られると考えさせるのです。
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苦悩さん、
私の手紙を誰にも見せていないでしょうね。人間が個人個人でありながら神の愛をいうものを表現することができると書きましたが、この敵の考えにだまされたということではありません。
敵が人間を本当に愛しているとは言いましたが、これはもちろん不可能なことです。彼はひとつの存在であり、彼らは別な者です。彼らの益になるものは、敵の益になるとは考えられません。我々の父(悪魔)は、このことで困ったのです。敵が人を造ったとき、自分の利益を考えていたに違いありませんが、このことについて、一言もいいませんでした。十字架とか愛とかのことしか話してくれませんでした。もちろん、これはみとめられなかったので、父は天国から出て(追い出されたという話もありますが)、この秘密を探ろうと今日まで努めています。我々の務めにもなっているのです。
人間が恋するのはいいことか、悪いことかと、聞きました。その答えとしてーーこのような質問を人間にさせるのです。会い、愛国心、独身生活、裁断の議論、絶対禁酒主義、教育の善し悪しのことは、人間に議論させるのがいいでしょう。」心の構えそのものは大切でありません。その向き方によって人を敵から離れさせ我々の方に向くように働くことが重要です。
例えば、人が細かいことに欲のある人だったら、このことを自分の清さと感じさせ、恋することを憎ませてください。敵が作った愛というものの器となる聖から全く離れさせるのです。
一方、人が感情的な者であったなら、詩人や諸説かを通して恋そのものが価値あるものだと思わせてください。この考えを通して悲劇的妥協をロマンチックに思わせて引き延ばせ、殺人、自殺などに終わらせるのです。
または、結婚は敵の発明したものにもかかわらず、我々の益にもなります。人を結婚させ、周りに魅力のある独身の人を幾人か置くのです。クリスチャン生活は非常に難しくなると思います。
健康・病気・老年・戦争・平和についてーー霊的見分けで評価すると、単なる材料なのです。
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