I mentioned visiting Oak Pak in my July 29 post, but all I said there was that I'd played on the girls' all-black basketball team at the high school there. I didn't mention the unique family devotions interruption that we began to expect after that one day in the 23225 Berkley living room. How could I have forgotten?
My younger sister and I were still in high school then, and Grandma had died, so Grampa had been invited to live with the family. I remember we loved Grampa who was so sweet, but it was sometimes confusing to our neighbors when it seemed he was worshipping the tree in our front yard. The truth of the matter was, he was just stranding up from the lawn chair and doing his stretching exercises, could bend down and touch his toes a lot more easily than bend backwards, so it looked like he was bowing to the tree.
But one day, we heard Daddy's voice--it sounded almost excided--calling everyone out to the living room. "Pop, I wanr you to tell everyone what you just told me so they can hear it too," he said.
And slowly, Grampa affirmed he knew he was a sinner and deserved to go to hell for his sins but Jesus had died on the cross for him and he wanted to repent, to believe on Him! And he prayed right then and there. I think everyone was elated. But Grampa didn't give us much time to be happy. He told us, "When I was a teenager, a missionary taught us children "Shu Ware O Aisu" (Jesus Loves Me) that goes like this (and he sang it). And she taught us "Michi Mayuti Uchi Yu" (I've Wandered and Come Home, to the tune of There Is A Fountain) that goes like this (and he sang it).
Ever since that day, whenever we'd have family devotions, Grampa would tell us about a green-eyed lady who taught him 2 songs--could he sing them? By the way, the second is in the hogen, or Okinawan dialect.
みちまゆてうしよ でかよむどて
わしたあまじまぬ うやゆうがま
つみとがゆくやむ くくるすしど
うやからしでたる たからでむぬ
...so, when Grampa heard that missionary pray at the Brandon hospital, that probably means it wasn't the first time.
スクリューテープの手紙12と13
苦悩さん、
患者の扱い方を聞くと嬉しくなります。頑張ってください。急ぐ必要はありません。彼は敵から離れていますが、今の歩みの向きに気づかないように。
教会に行き続けていることは、このためです。外見的・クリスチャン生活の習慣を守り心の状態が敵から離れることは、我々にとって最高の望みなのです。罪というものを完全に認めず、はっきりと悔い改めず、この頃は、なんとなく調子がよくないと感じるだけになると、我々の務めは軽くなります。この感じを長い期間続けさせ、真の悔い改めまで行かないように気を付けること、ことばで言えないほどの価値があります。
自分の罪を蜘のようにーーはっきりではなくーー感じるとき、敵のことを考えにくくなります。宗教的義務を最初は無視するようになり、いずれか嫌うようになります。
この状態が生活の一部になると誤解で誘惑する必要もなくなります。なぜなら、彼は以前の喜びと満足感をなくすため、他の興味・軽薄・娯楽に心が引かれるようになります。祈り・聖書から気をそらせるためにいい本を与える必要もなくなります。新聞の記事だけで十分になります。時間のむだ使いも、好きな人と興味あることを話せるだけでなく、誰とでも、関心のない物事も話すようになります。この結果、私は一生、すべきものもせず、好むものもなくても、空虚なものに時間を通やすようになると、人はそれを振り払う力がないほど弱くなるのです。
これらは小さな罪に思うかもしれませんが、敵から引き離すものは全て同じように考えてもいいでしょう。かえって、地獄への道、いちばん安全な道は、徐々に暗くなる下り道です。足元は柔らかく、急に曲がらず、道しるべがないようなものです。
スクリューテープ
苦悩さん、
人が悔い改めてしまったと聞きました。あなたは大変な失敗cをしました。最初の改心よりも大変なことになると思います。
あなたの患者が散歩しているとき、ある窒息させる雲に囲まれましたね。敵の最も強力な武器です。我々に知らない形で人と共にいるとき、この雲が現れ、ある物は常にこの雲に囲まれているので手のつけようがありません。
あなたの失敗についてですが。最初に、患者に本を読ませたこと。彼がそれを読み、友人に面白話をさせるためでなく、ただ楽しませるためでした。次に、彼が散歩をし、好きな所でくつろぐことも許しました。真の楽しみを許したのはいけませんでした。痛みも楽しみも現実を感じさせるのです。人を地獄に送ろうとするとき、事故哀れみや空想的苦難を妄想させ、実際の痛みから守らなければなりません。虫歯のたみだけでこれらの考えが、ばかげたことであるとすぐわかります。どうよう、世を通して人を地獄に送ろうとするとき、騒ぎ・皮肉・お金のかかる退屈などを面白く感じさせるのです。真の楽しみを感じたとき、空しい外見的イメージから離れ、我々に帰ったではありませんか。我々のいままでの骨折りは、全て水の泡になってしまいました。
敵も我々と同様人が自分を忘れることを願っていますが、目的は違います。心の真の楽しみを忘れさせるだけではありません。敵の目的はーー面白いですが、人間一人一人を実際愛して彼らの個性を大事に思っているのです。彼らが自分の意志を引き渡す以外、個性的性格から離れることを願いません。一方、我々は、それを勧めなければなりません。なぜなら、人間の自然な性質の中に敵の方に向く心があるからです。人間の真の好み・願いの代わりに世の基準・流行・習慣などを目の前に置くのが我々の目標を発達させます。
この点は、極端にもちいてもいいと思います。どのような単純な楽しみでもかまいません。虫の鳴き声を聞くこと・切手を集めること・ココアを飲むこと・そのもの自体にとくがなくても、なんとなく、すなおな、謙遜な、我を忘れる態度があるので、信用できません。他人が、世に何を言われようと、楽しみたいものを楽しむ者は、我々の攻撃から守られているのです。本当に好きな人・食べ物・本より「いちばんいい」人・「正しい」食べ物「重要な」本を選ぶように勧めるのがいいでしょう。
いまの悲劇について我々はどのように反応できるでしょう。まずは、彼が何も実行しないように努めることです。改心を適用するより、どのことを薄くかんがえたり、そのことについて本を書かせたりするのもいいでしょう。思想も愛情も、行動しないと、ますます行動がとりにくくなり、終わりに感じにくくなります。
スクリューテープ